大阪地方裁判所 昭和22年(ワ)1298号 判決
原告 梶本延太郎 外一名
被告 南海電気鉄道株式会社
一、主 文
原告等の請求を棄却する。
訴訟費用は原告等の負担とする。
二、事 実
原告訴訟代理人は被告は原告等に対し金八十四万二千二百四円及之に対する昭和二十二年二月十三日から支拂済に至る迄年五分の割合に依る金員を支拂うこと、訴訟費用は被告の負担とするとの判決並に仮執行の宣言を求め、其の請求の原因として、原告等の二男秀夫(大正七年十一月二十一日生)は土工であつたが、昭和二十二年八月十五日從前の働き先である大阪市浪速区木津川三丁目日立造船株式会社浪速造船所へ仕事に行つた帰途木津川駅で被告会社の高野線汐見橋駅発住吉東駅行木津川駅発午後四時三十一分発電車に乘り更に住吉東駅で同社線難波駅発狹山駅行二輛連結運轉手井上定吉、車掌福井健三乘務住吉東駅発午後四時五十三分発電車に乘換へ、同電車が次駅沢之町駅に向う爲、時速約四十粁で進行中住吉東駅南二番踏切から約百十五米の地点(住吉東駅プラツトホーム南端に在る鉄柱を第一とし南え第九本目の鉄柱から約三米南方)で、出発前前車左側扉が開いて居り同所は稍々「カーブ」して居た関係上其の電車の動搖で扉の内側に居た前記原告等の二男秀夫は同電車から顛落負傷し、直ちに上住吉町五十五番地医師前島公克の應急手当を受け大阪市住吉区帝塚山東二丁目藤森病院に入院加療したが治癒するに至らず、翌十六日午前六時三十五分遂に死亡した。右事故は被告会社の使用人である右電車乘務車掌福井健三が、右電車を住吉東駅から発車さすに当り、各扉の安全であることを確認した上発車すべきであるのに之を確認しないで漫然として発車の合図を爲し発車させた爲に発生したものであつて、同人の業務上の重大な過失に基くものである。而して被告会社は旅客の運送を営むものであるから商法第五百九十條の規定に依り損害賠償の義務がある。仮にそうでないとしても、右事故の発生した電車の車輛の扉は元來自動式開閉扉であつたが、当時自動開閉裝置は故障して居つたのに拘らず、被告会社は之を修理せず、その儘手動式で開閉し運轉して居たが、本來の手動式扉は電車の進行中扉が自然に開披しないように施錠する留金の錠即ち「ダツチ」と称するものが設備してあり、通常大阪市電路面電車では一扉で一個、近畿日本鉄道南大阪線の電車では安全を期す爲二個附けてある。自動式開閉扉には此の「ダツチ」の設備がなく、自動式開閉の扉の開閉機が故障すると「ダツチ」がない爲、完全施錠をする術がなくなる爲、一旦閉めても電車が進行中動搖すると自然に開閉することとなる。被告会社は前記の通り自動式開閉扉の開閉機が故障して居たのに、「ダツチ」を附することなく、そのまゝ運轉して居たのであるから、仮に本件電車の発車前扉を閉めたとしても、進行中自然に扉が開閉する虞は充分にある。かゝる電車を運轉したことに付被告会社は責任があるから、本件事故に因り生じた損害を賠償する義務がある。而して原告等の二男秀夫は、大正七年十一月二十一日生で被害当時將に満三十歳に達しようとするもので、明治四十五年四月二十日附内閣統計局発行の日本人完全平均命数表に依ると、まだ三十三年余生存できることになつて居るが之を内輪に見積つても二十八年間は優に生存出來るのである。然るに本件事故に依り秀夫は右残存期間内に働いて得べかりし利益を喪失した。秀夫は当時日給金百二十円で一ケ月少くとも二十五日働くことができるから、一ケ年合計金三万六千円の收入があり、ホフマン式計算法に依り、右残存期間二十八年間の收入を積算するときは合計金六十二万七十四円となり、同額の損害を被つた。而して同人は本件電車から轉落負傷後翌朝絶命する迄殆ど絶間なく「ウム、ウム」と悲鳴を挙げ、肉体上の苦痛と精神上の苦痛を訴え、致命的傷害を被つたことに因る精神的苦痛に対する慰藉料の賠償を求める旨の意思を表示して居り、本件事故に鑑み、右慰藉料は金十万円を相当とする。秀夫には直系卑属がなかつたから、原告両名は直系尊属として、同人の死亡に因り右損害賠償及慰藉料請求権を相続すると共に、秀夫の急死に因り両親として受けた精神上の苦痛に対する慰藉料として夫々金五万円、原告両名にて合計金十万円、及葬式に要した費用金一万百三十円並に石碑建設費金一万二千円を加え、原告両名は以上合計金八十四万二千二百四円及之に対する訴状送達の日の翌日である昭和二十二年二月十三日から支拂済に至る迄年五分の割合に依る遅延損害金の支拂を求める爲本件請求に及んだと陳述し、被告の主張事実中、本件電車の扉が完全に閉めてあつたが酷暑の折柄涼を採る爲乘客に於て勝手に扉を開けたとの点、秀夫が鉄柱に触れて電車から轉落したとの点及該電車の扉は自然に開披することは絶対にないとの点は何れも否認する。仮に当日巡査も出張して事故防止の手段をとつていたとしても、之は巡査が臨場していた時丈のことであり、緊張と弛緩とは通常交互に來るものであつて始終緊張を保つことはあり得ない。
本件事故は正に緊張の去つた弛緩時即ち巡査の去つた夕方の出來事であることが事件の眞相を物語るものであると述べた。<立証省略>
被告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、答弁として、原告の主張事実中、梶本秀夫が原告等の二男であること、昭和二十二年八月十五日午後四時五十四分被告会社高野線住吉東駅、沢之町駅間で二輛連結運轉中の電車(運轉手井上定吉、車掌福井健三乘務)から乘客梶本秀夫が墜落して負傷し、翌十六日死亡したことは認めるが、其の責任が被告会社に在ることは否認し、原告等の其の余の主張事実及原告等の主張の損害額は之を爭う。梶本秀夫が被告会社の高野線(複線軌條)下り線(高野方面行)電車に乘車中顛落した場所は同線の基点大阪市汐見橋駅から七粁程標から以遠(以南)約五十米即ち同線住吉東駅中央から南方約四百米附近で其の北方約五十米に東西に通ずる住吉東第三号踏切がある。(其の附近の線路方位は西北から東南に走るが説明の便宜上高野方面に向い左側を東方右側を西方、住吉東駅方面を北方と呼び、顛落箇所から約四百五十米にして沢之町駅に達するが、同方面を南方と呼ぶ以下同じ)事故発生箇所附近の線路は住吉東駅から南方約二百米は西方に向い極めて緩い「カーブ」を爲し、それから前記踏切迄約百五十米は略直線で更に南方に進むに從い反対に東方に向い緩い「カーブ」(半径千二百米)を爲し、遠心力の原則に則り「カーブ」内側軌條は外側軌條より三十四糎低く敷設して進行電車の安全を計つてある爲、電車の驀進に当り車体は「カーブ」の内側に傾斜する。事故箇所の地勢は前記踏切から南方線路の両側は畑地で地表次第に低下して居る爲、線路は築堤式となり南方に進むに從つてその高さを増し、事故箇所に於て線路の東方方面三米地表と線路建設面と直角に二米あり、同箇所から約七十五米にして東西に流れる幅員約六米七の細井川ガードに達し、其の間軌道は水平にして同ガードを渡るに從い次第に低下して居る。又前記踏切の北側線路建設面の両端に加線支持の組立式鉄柱があり、それより以南四十米毎に同様の鉄柱が存在して居る。事故発生電車は列車番号第四六四三号車輛番号モハ第一九〇五号クハ第一二一一号二輛連結で各車輛の頭部及び尾部に接近して両側に自動式乘降口二箇所を設け自動式扉を設備してあつたが、大阪市空襲後乘客頓に増加し其の混雜の爲事故発生当時乘降口の扉の開閉機が破損して居つた爲全乘降口に亘り手動式に使用して居たが、同扉は電車の運行に伴い自然に開披するようなことは絶対にない。電車が駅又は停留所発車に当り、大駅又は中駅では駅長又は助役及列車扱駅員並に当務車掌が、小駅では列車扱駅員並に当務車掌が、電車の各乘降口の扉の完全閉鎖を確認しなければ発車せぬが、本件事故発生当日である昭和二十二年八月十五日は時恰も大阪府交通課提唱の「月間交通安全宣傳運動実施期間(同年八月一日乃至同月三十一日)」に当り其の実施條項数多ある内其の一項目として各車扉は完全閉扉の上発車することの項目があり、被告会社は右運動に十全に協力し運輸部に於ては現業員監督者が総現業員に対し其の趣旨を徹底させ昭和二十二年七月三十日附社報(乙第一号証)に府交通課提唱の右運動実施に付ての全文を掲載し一層其の徹底を期し、且交通安全月間ゲレツトポスター並に立看板(乙第二号証と同文のもの)に依り右期間中各駅に遺漏なく掲出し一般乘客に其の趣旨を周知せしめ其の協力を求めた。而して梶本秀夫が顛落した地点の手前の前記鉄柱は高野方面行両軌條内中央から同鉄柱基部迄一米九五あり、同軌條の外側線の内側から同鉄柱基部迄一米四あり、本件事故発生車輛と同型の車輛を右鉄柱の箇所に停車させ檢すると、乘降口底部(所謂敷居に当る)は〇・五五米同昇降口上部(所謂鴨居に当る)から同鉄柱迄の距離は〇・五三米を算するが、電車が驀進するときは遠心力の原則に依り同電車の上部は一層鉄柱に接近することとなる。
偖本件事故発生当日である昭和二十二年八月十五日は前記の通り交通安全月間中であり其の実施要項を嚴守実施して居たが、住吉東駅に於ては住吉警察署から巡査が出張し、駅長山地喬、当務助役向井徳松、乘客案内掛小谷進が出動し、本件電車が住吉東駅を発車するに当り、同電車には運轉手井上定吉(当時四十一歳)、車掌福井健三(当時二十歳)が乘務し、中等度の乘客を積載し、同電車の各乘降口の扉が完全に閉鎖されたのを確認し、右当務助役は合図に依り車掌をして運轉手に発車合図を爲させ、右乘務車掌は自ら乘降口の扉閉鎖の完全であることを確認の上発車合図を爲したもので、殊に前車輛前部の乘降口の扉は前記乘客案内掛小谷進が現実に閉鎖したものである。然るに当日は何分にも酷暑の折柄であつた爲乘客が涼を採る爲其の扉を開披し、秀夫は其の乘降口際に在つて涼を採つて居つた爲、電車の動搖に依り上半身を車外に露出し忽ち前記鉄柱に触れ墜落し電車の前進に伴ひ力学の原則に依り斜前方同鉄柱から約二十米南方築堤基部に轉落したもので、同電車が住吉東駅発車当時から開披された儘であつたことは絶対にない。以上の次第であるから被告会社は秀夫の墜落及其の死亡に付全然責任がない。從つて原告等の請求は失当であると述べた。<立証省略>
三、理 由
昭和二十二年八月十五日午後四時五十四分頃、被告会社の高野線住吉東駅沢之町駅間に於て二輛連結運轉手井上定吉、車掌福井健三乘務の進行中の電車から、原告等の二男梶本秀雄が墜落して負傷し、翌十六日死亡したことは当事者間に爭なく、檢証の結果及証人田中逸雄、岡沢武彦、角野政一及梶本延夫の各証言を綜合すると、本件事故の発生の場所は被告会社高野線住吉東駅南方第一の鉄柱から数えて第九の鉄柱の南方約十三米の地点であつて、該場所の附近の模様、軌道の状況、勾配及「カーブ」の状況は略被告主張の通りであること、被害者梶本秀夫は当日其の働き先の大阪市浪速区木津川町三丁目日立造船株式会社浪速造船所からの帰途、被告会社の高野線木津川駅から乘車し、住吉東駅で本件事故発生電車に乘換えたが、住吉東駅から乘車する際、二輛連結の前車の前乘降口から、友人田中逸雄、角野政一、岡沢武彦及実弟梶本延夫と共に乘込んだが、先ず梶本延夫及岡沢武彦が乘車し入口の扉附近に立ち、秀夫の乘車位置は知らず、田中逸雄は前車の前乘降口の扉附近で秀夫と相対して立ち、角野政一は同扉の運轉手に近い位置に扉に向つて立つて居り、同電車は普通満員の程度の乘客があつたこと、秀夫は右電車が本件事故発生の「カーブ」を進行中、右電車の前車の前乘降口から顛落して築堤の基部に南に頭を向け俯伏せに倒れ右耳後の頭部に負傷をして居た事実、秀夫の右顛落を前記同乘者は何人も気附かず、同乘客から顛落の事実を聞き初めて之を知つた事実を認めることが出來る。被告は秀夫が第九番目の鉄柱に頭部を打ちつけ電車から顛落したと主張するが、之を認めるに足る証拠はない。原告等は右電車が住吉東駅を発車するに当り、乘務車掌福井健三は各車輛の全部の扉が完全に閉ぢられるのを確認せず、扉の閉鎖されぬまゝ発車の合図をし、運轉手をして該電車を発車させた爲に、前記「カーブ」に差蒐つた際電車の動搖に依り秀夫は顛落したと主張するが、此の点に関する証人梶本延夫の証言は「発車の時電車の扉は昨年(昭和二十二年)は開いていた方が多かつた」と云うのであつて本件事故の際の具体的証言でなく、証人角野政一の証言は「電車の扉は住吉東駅に到着する前から開いて居た様に思う、何時もの経驗で発車後扉の開いていることが多い様である」と云う想像的帰納的証言であり、証人岡沢武彦の証言は「扉は住吉東駅に到着した時から開いていた」と云うので発車の際の具体的実驗の証言でないから何れも採用出來ないし、証人田中逸雄の証言は後掲証拠に徴し採用出來ない。成立に爭のない乙第一号証、証人山地喬の証言に依り眞正に成立したと認められる乙第二号証、証人山地喬、向井徳松、小谷進、福井健三(第一、二回)及宮内英親の各証言を綜合すると、大阪府交通課は昭和二十二年八月一日から同月三十一日の一ケ月を月間交通安全宣傳運動実施期間とし、大阪府下一円に亘り交通秩序を確立する爲民衆に交通の法則と交通道徳に関する思想を啓蒙し交通規範の根本的理念を民衆の腦裏に注入し以て健全なる街頭交通訓練の素地を作ることを目的とし、右期間中種々の要綱を作りその趣旨の徹底及遵守をはかつたが、電車発車の際の完全閉扉の上発車することもその項目の一となつて居たこと、被告会社は右運動実施に協力し、各現場從業員にその実施要綱の遵守徹底方を督励して來たが、同月十五日住吉駅に於ては駅長山地喬、当務助役向井徳松、当務乘客案内係小谷進等が出勤し、乘客の整理その他の仕事に当つて居たが、本件事故発生の電車が住吉東駅に到着した際、二輛連結前車の前乘降口の扉を案内係小谷進が、同車の後乘降口の扉を山路駅長が、二輛目前乘降口の扉を当務助役向井徳松が、最後部の扉を車掌福井健三が夫々閉め、各扉が完全に閉つたのを認めた向井助役は右車掌に対し発車合図を爲し、車掌福井健三は右の合図があると共に発車準備合図の第一声の笛を吹鳴し、各扉の完全閉鎖を確認して発車合図の第二声の笛を吹鳴し、運轉手井上定吉をして該電車を発車させた事実を認めることが出來る。然らば該電車発車の際車掌福井健三が各扉の完全閉鎖を確認せずに漫然発車合図をし、扉の閉鎖してない電車を発車せしめたとの原告等の主張は採用出來ない。右のように扉の閉鎖があつたのに秀夫が乘降口から顛落したとの事実の間に矛盾が存するようであるが、該電車の乘降口の扉は元來自動式開閉扉であつたが当時自動開閉機が故障して居り、手動式で開閉して居たことは当事者間に爭のないところであり、鑑定人木村忠勝の鑑定の結果に依ると右の様に自動開閉機が故障し手動式で扉を開閉する場合、扉を閉ぢる時には割合軽いが、開ける時は相当の力を要し、子女の力では開くことは困難であり、電車の運轉中の動搖に依り自然に開くことはないことを認めることが出來、証人宮内英親の証言に依ると、当時高野線では集団買出人が多く窓硝子を破るもの、扉を破壞するもの、扉を閉めて発車しても監督者の目の届かぬ所え行くと満員の乘客が扉を開けることがしばしばであつた事実を認め得るから、本件電車が発車後その進行中何人かが該扉を故意に開けたものと推認することが出來るから何等矛盾するところはない。而してかゝる開扉は被告の從業員の過失と謂うことは出來ないことは勿論である。其の他に本件事故が被告会社の使用人の過失に依り生じたものであると認める証拠はないから本件事故が被告の使用人の過失に基いて惹起されたことを前提とする原告等の本件請求は失当である。
次に原告は本件事故の発生した電車の扉に「ダツチ」が設備してなかつた爲に完全に施錠が出來ず、電車の進行中扉が自然に開披し秀夫が顛落したもので、かゝる不完全な扉を有する電車を運轉した被告会社は本件事故に付責任があると主張し、本件事故の発生した電車の乘降口の扉は元來自動開閉式扉であつたが、該開閉機が故障し、手動式で開閉し運轉して居たことは前認定の通りである。然し乍ら鑑定人木村忠勝の鑑定の結果及証人宮内英親の証言を綜合すると、電車の扉が自動式である場合に、その故障に因つて自動式に開閉出來ない場合には三方コツクを閉ぢ手動式で開閉する以外に方法はない。国鉄では自動開扉の車輛には新調の当時から忍錠(ラツチに相当するもの)を装置してあるが、阪和線社型電車は忍錠の設備がない。然し此の種の車輛に必ずしも忍錠を設備しなければならないことにはなつていない。自動式開閉扉を手動式にする爲三方コツクを閉ぢた時、扉を閉ぢる時には割合に軽いが、開ける時は相当の力を要し子女の力では開くことは困難であり、電車が運轉中の動搖で自然に開くようなことはない。終戰後昭和二十三年頃迄は各鉄道共に自動扉の状況は惡く辛うじて電車が走つている程度であり、国鉄に於ても昭和二十三年九月から東海、山陽線、十二月から城東線、片町線にようやく連動運轉(各電車の扉が全部閉らぬと電車が起動出來ぬ様に出來ていて、全部が完全に閉つたことを運轉手が運轉台に設備の指示ランプに依り確認するようになつている運轉方法)を実施した状況であつた。特に戰災の大きかつた南海電車では昭和二十二年頃は車輛状況最も惡く扉開閉機械の設備迄は資材人手共に不足し全車を手動にて運轉して居た事実を認めることができる。又戰爭中に相当甚大な被害を被つた交通機関が、終戰後其の復旧への努力にも拘らず車輛不足は容易に緩和されず、加うるに当時集団買出人等の爲、又は戰後の一般道徳低下に伴い交通道徳も極度に低下し、所謂交通地獄を現出し故意に窓硝子其の他を破壊する等の行爲を爲す者続出し、その修理を爲さぬまゝ己むを得ず運轉して居つたことは顕著な事実であつて、原告の主張するが如き設備をすることは交通の安全の爲には勿論必要ではあるが、前認定の如くかゝる設備を爲さぬ爲に特に危險でない以上、被告会社が当時の交通機関の状態に於て、原告等主張のような施錠設備を爲さず電車を運轉したとしても当時の資材其の他の関係で眞に己むを得なかつたと謂うべく、被告会社にかゝる設備を当時爲さなかつたことに対する法律上の責任を問うことは出來ぬものと謂はなければならない。本件事故は原告等及秀夫にとつては眞に悲しむべき不幸である。被告会社が法律上の責任は兎も角として道義的責任を感じ、自発的に見舞金の贈與又は慰藉の方法を講ずるは格別被告会社の電車の設備不完全であるが爲に、本件事故を惹起したことを前提とする原告等の本件請求は爾余の判断を爲す迄もなく失当である。
以上の理由に依り原告等の請求は何れも失当として之を棄却し、訴訟費用の負担に付民事訴訟法第八十九條を適用して主文の通り判決する。
(裁判官 岡野幸之助)